上田安子クロニクル

人一倍強い美意識を持った女性

上田安子は女学生の頃から高い美意識を持ち、常に目新しいものに価値を求めていた。事実、戦時中でもモンペをはかず、セルの着物をオーバーオールに仕立て直して着ていたほどである。ファッションとの出会いは、’30年頃に夢中であった登山が動機。その頃は登山する女性そのものが珍しく、登山服は高価でしかも野暮ったかった。

上田安子は自分のセンスやスタイルに合った服を作って山登りを楽しみ、それが本格的な服飾を学ぶきっかけとなる。そして、’41年に洋裁学校「上田安子服飾研究所」(現・上田安子服飾専門学校)を設立した。

まもなく戦争が終わり、日本人の生活や価値観が激変する時代が始まる。服飾研究所も、女性が働くために着るという必要性に駆られた服作りから、お洒落や美しさを満足させる服作りへと変化を遂げていく。当時の日本では服飾の教科書も整っておらず、著名なデザイナーや画家を美学演習の教員に加えるなど、新しい試みを取り入れた。’49年、大丸心斎橋店の顧問デザイナーに就任し、同時に「上田安子コーナー」が開設される。上田安子は関西での地盤を着々と固めながら、服飾界の先駆者の1人になっていった。

C・ディオールとの出会いから得たもの

この時代、世界のモードをリードしていたのはパリ・オートクチュールで、その中心人物の1人がクリスチャン・ディオールであった。上田安子は、すでに学校経営の成功とデザイナーとしての評判を得ていたが、ディオールに会うため’53年に単身渡仏する。

パリから遠く離れた日本のデザイナーにとって、ディオールのデザインは衝撃を受けるほどに新しかった。「これまでの私がしてきたことはデザインではなかった」初めての挫折と絶望を経験することになる。

しかし、ディオールのパターンを日本に紹介するという仕事を通して、デザインの構造をより深く理解することができた。特に、芯地の多様性と使い方によって生み出される立体的なシルエットは、着物の延長であった平面的な日本の洋服のイメージを一新させることになる。それは、まさに生きたファッションを学ぶということだった。

上田安子は本場のオートクチュール技術を持ち帰り、日本の服飾界に一大センセーションを巻き起こす。同時に教育者としてさらなる足跡を残すことになる。ディオールとの親交はその後も続いた。

受け継がれていくデザインの遺伝子

ディオールとの出会いを機に、上田安子は広く世界に目を向けた。

’60年代に入るとジバンシー、バレンシアガの元で服飾技術を身に付け、世界各地でファッションビジネスの研究に取り組むことになる。

そこで得た情報や海外の教材・技術書をベースに、オリジナルの教科書や指導書を基礎から作り上げていく。最先端のノウハウを生かし、国際感覚を大切にした教育の姿勢は、世界に通用する人材の育成を目指したものである。’65年には、姉妹校として「総合デザイナー学院」(現・大阪総合デザイン専門学校)を設立して、事業規模を拡げていった。

1906年生まれ。明治、大正、昭和、平成と4つの時代を生き抜いた上田安子の人生をなぞると、そのまま戦後の服飾史、服飾教育史が見えてくる。戦争を挟んでめまぐるしく変化していった社会の中で、いつも一歩先を歩いた女性。数多くの功績の中で最も素晴らしいのは、半世紀の間に何万人もの後継者を育て世に送り出したことではないだろうか。

’96年、阪神淡路大震災の翌年に90歳で他界した後も、上田安子の遺伝子は途切れることなく受け継がれている。

上田安子略歴

1906年 0歳 大阪に生まれる(明治39年4月9日)
1923年 17歳 大阪府立夕陽丘高等女学校卒業
1941年 35歳 上田安子服飾研究所創立。戦争激化のため一時閉鎖
1946年 39歳 上田安子服飾研究所再開
1952年 46歳 出版社「服飾手帖社」設立、服飾専門誌「服飾手帖」を創刊
1953年 47歳 日本に初めてオートクチュール技術を紹介
クリスチャン・ディオールのコレクション発表
服飾研究のためアメリカ、エセル・トラファーゲン・スクール・オブ・ファッションに留学
1957年 51歳 フランス・パリ、クリスチャン・ディオール社アトリエにて技術研究
クリスチャン・ディオール氏の自伝を、「一流デザイナーになるまで」と題して翻訳・出版
1990年 84歳 上田安子 上田学園創立50周年記念出版日本語版
「BALENCIAGA」を監修・発行
1996年 90歳 上田安子永眠、正六位叙位

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